狭い東京があんなに栄える大都会となったのはなぜ?

歴史

狭い東京があんなに栄える大都会となったのはなぜ?

日本一の都会と言えば東京ですよね。

私も東京に4年ほど住んでいましたが、本当に大都会で、日々情報や人で溢れかえっています。

そんな大都会「東京」に住んでいた頃から、私は「東京って狭いのに、なぜ大都会になったんだろう」と疑問を抱いていました。

東京都は日本で3番目に小さい地域ですが、日本で一番多くの人口数を誇っています。どうせ大都会になるのであれば、もっと広く、土地に余裕のある北海道とかの方がいいのに、なぜ小さな東京が栄えたのか。

そこで今回は、狭い東京がなぜ栄え、大都会となったのか?という点についてを調査し、その結果をまとめてみました。

スポンサーリンク

東京が栄えて大都会となった経緯

調べてみる前から何となく予想はしていたのですが、東京が栄えて大都会となった理由は深い歴史が関わっていました。

「狭い東京が栄えて大都会となった理由はコレです!」と一言でまとめる事もできるのですが、それだと簡単すぎますし分かりづらいので、わかりやすく解説する為に「東京が大都会となった経緯をまとめてみました。

これで、どのようにして東京が栄えて大都会になったのか分かりやすくなると思います。

では、早速、東京が栄えて大都会となった理由を紐解くための歴史を辿ってみましょう。

東京が栄えるきっかけになったのは「徳川家康の江戸入り」

1590年(天正18年)、豊臣秀吉は徳川家康が領地(支配していた地域)としていた東海地方と甲信地方の5ヵ国を奪い取り、代わりとして関東地方を領地として渡しました。

分かりやすくする為、簡単に解説していますが、正確には豊臣秀吉の命令によって徳川家康は領地を関東に移したという事です。これを移封やら転封やらと呼んだりします。

その後、徳川家康は関東の内の一つ「江戸(東京)」を拠点とし、江戸城へと入城しました。

この当時の江戸(東京)は、今の大都会からは想像もできない程に何もない平野。なぜ家康はこの江戸(東京)を拠点にしようと考えたかは定かではありませんが、有力説としては「栄える為の環境が整っていたから」というものが挙げられます。

何もない平野でも、良く言えば「広大な土地がある」という事。更に言えば、江戸(東京)には物流に欠かせない川があり、海もありました。今でいう「利根川」と「東京湾」です。

自身の領地であるがゆえに、将来的に街を栄えさせたいと考えるのは当然です。その事を前提として考えた徳川家康は江戸(東京)を拠点としたのではないかと言われています。

徳川家康によって江戸(東京)が栄え始める

家康が江戸(東京)に入った当時、拠点としていた江戸城は荒れ果てていましたが、徳川家康は江戸城の修復より住みやすい町づくりを優先しました。(若干、江戸城の修復はしたそうですが、本格的に行われたのは1606年)

その為にまず、徳川家康は家臣(徳川家に仕える人、家来(けらい)とも)の一人である大久保 忠行(おおくぼ ただゆき)に江戸城下の上水工事を命令しました。大久保は、この上水工事を僅か3ヶ月で完成させ、江戸に水道が作られたのです。
※上水工事:飲用の水を確保する為の工事ですね。

まだ今ほど技術が発展していなかった当時、土木建築に関わる作業は全て人力。特に戦国時代は戦による城の建築、修復などが盛んに行われており、その時代を生きた人々は高い土木技術を有していました。

しかし、豊臣秀吉によって導入された大名間の私闘を禁ずる法令「惣無事令(そうぶじれい)」によって戦は減り、土木技術者たちは暇を持て余していたみたいです。

徳川家康は、そういった土木技術者たちを雇い、江戸(東京)の発展を加速させました。

これにより、江戸(東京)には住宅地や銭湯などの施設が整い、それに伴って江戸には徐々に人が集まり、栄え始めたのです。

江戸幕府が開かれ、さらに江戸(東京)は栄える

江戸城(東京都) Wikipediaより

当時、天下統一を手にしていた豊臣秀吉が死去。これにより天下統一を巡る石田三成と徳川家康の対立が起こりました。

これが1600年に勃発した「関ケ原の戦い」です。
※かなり省いて説明しています。詳しく説明すると記事の主題からズレるのでざっくり説明しています。すいません。

この戦いに勝利を収めた徳川家康は、元は豊臣秀吉のものだった天下の実権を握る事になります。簡単にいうと「敵なし」の状態です。

そして1603年、徳川家康は天皇や貴族が政治を行う「朝廷」より、武士達の頂点に立つものに与えられる「征夷大将軍」の地位が与えられました。略して「将軍」です。こっちの方がイメージしやすいですね。

これにより、将軍である徳川家康を長として武士達が政治を行う組織、または政治上の事務をおこなう場所「幕府」が江戸(東京)に開かれました。

これが「江戸幕府」であり、ここから江戸時代が始まります。

分かりやすく説明すると、徳川家康は総理大臣であり、この総理大臣と下の政治家たちが仕事する場所が「幕府」です。なので、もし徳川家康が沖縄にいれば、沖縄が幕府です。

江戸幕府開幕後、徳川家康は全国各地の大名およびその家臣数万人を江戸(東京)に集結させ、それを受け入れるに伴い町の発展は急激に加速、一気に栄えました。

そして江戸は、大都会「東京都」となった。

1616年(元和2年)、江戸幕府を開いた徳川家康はこの世を去りました。

徳川家康が江戸(東京)に入ってから26年、幕府の開幕によって急激に栄えた江戸(東京)は、徳川家康の死後もなお発展が進み、19世紀初頭には人口100万人を超える大都市となりました。

1867年には、江戸幕府15代目将軍であった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、朝廷に征夷大将軍の役職を朝廷へ返還した事によって江戸幕府は消滅しました。
※本当はあれやこれやとあって江戸幕府が消滅したのですが、それを解説すると主題から逸れるので割愛。

その後、徳川慶喜率いる旧幕府軍と、西郷隆盛(さいごうたかもり)率いる「薩長軍(さっちょうぐん)」、またの名を「新政府軍」の戦い「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」が勃発。これにより江戸(東京)は、戊辰戦争に勝利した新政府の支配下にはいります。

難しい話がでてきましたが、気にしなくていいです。私が言いたかったのは江戸幕府が消滅してもなお、江戸(東京)を中心として色々な出来事が起こったよと言いたかったのです。

それから、江戸は「東京府」と改称。1869年には明治天皇が東京に入り、この時点で東京は事実上「首都」に。そして、新政府に仕える多くの人々が東京に集結しました。

1945年には、第二次世界大戦の東京大空襲によって一度は壊滅しかけたものの、その後の朝鮮戦争に伴うアメリカからの武器等の製造注文が進み大儲け。更に、1964年の東京オリンピックに伴って交通インフラは急成長。(いわゆる、高度経済成長期というやつである。)

これらの東京を巡る様々な出来事によって、東京は常に栄える大都会と化し、今もなを発展を続けているのです。

まとめ

「なぜ狭い東京があんなに栄える大都会になったのか」という疑問の回答をざっくりまとめると

関東を支配していた徳川家康が江戸(東京)を拠点として幕府を開き、それをきっかけに江戸(東京)を中心として様々な事が起こったから」です。

徳川家康が江戸(東京)に入った当初、まだ江戸(東京)が狭い場所なのか広い場所なのかなんてわかりません。ただその土地が徳川家康の目には魅力的に映ったから、江戸(東京)を拠点として幕府を開き、結果として、日本で3番目に小さい東京が大発展を遂げて大都会と化してしまったという訳ですね。

もし徳川家康が北海道で幕府を開いていれば、東京ではなく、北海道が大都会と化していたかもしれませんね。

スポンサーリンク