清水寺を建てた人って誰?その歴史は?

歴史

日本人、いや外国でもおそらく知名度は高いであろう京都の世界遺産「清水寺」

春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪景色と、どの季節でも清水寺は美しく、日本のベストオブ観光スポットと言っても過言ではありません。

しかしこの清水寺、名前だけがぶっ飛んで超有名だが「だれが作ったか?」と言われれば日本人でも答えられる人はそう多くはないと思われます。

という事で今回は、清水寺の歴史についてを調査し、その結果をまとめてみました。

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清水寺の歴史について

清水寺は京都府京都市東山区清水の音羽山(おとわやま)中腹に位置する寺院であり、その始まりは宝亀9年(778年)前にまで遡ります。

奈良県(大和国)の小島寺にて修行をしていた僧侶「賢心(けんしん)」は、夢で「北へ清泉を求めていけ」と老翁に告げられ、そのお告げ通りに行動した結果、辿りついたのが音羽山の「音羽の滝」

夢のお告げ通りの清らかな水が湧く滝のほとりで賢心は、音羽山に籠って滝行を行う自称200歳の修行者「行叡居士(ぎょうえいこじ)」と出会う。

どうやら修行中の行叡居士は賢心を長年待っていたらしく、「この霊木に千手観音を彫ってこの地を守ってね!」と訪れた賢心に霊木を託し、東国(今でいう関東地方らへん)へと旅立っていったという。

夢に出てきた老翁が行叡居士かどうかは定かではないが、賢心は行叡居士を「あれは観音様の化身や!!」と悟り、言われた通り託された霊木に千手観音を掘って、行叡居士が元住んでいた小屋(旧庵)にそれを置き、その地を守り続けたのです。

これが清水寺が建設されるきっかけであり、プロローグ的な話となります。

【補足情報】
賢心は後に「延鎮上人(えんちんしょうにん)」へと改名。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)について

突如として登場した人物「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」は、平安時代初期の武将であり、延歴16年(797年)には征夷大将軍に任じられた人物です。

様々な伝説も各地で語られている程の優れた武人であり、学校の教科書にもその活躍が語られているが、戦国時代に活躍した武人程の知名度はない為、坂上田村麻呂と聞いても「誰?」となる人が多いのではないかと…

少し話がそれてしまったが、結論から言うと、この坂上田村麻呂が清水寺を建てた人物であると伝えられています。

賢心が音羽山で行叡居士に出会った2年後の宝亀11年(780年)、坂上田村麻呂は妻・高子の病気を治すべく、薬となる鹿の血を求めて音羽山を訪れていた。

その道中、音羽の滝で坂上田村麻呂は賢心に出会います。

鹿を殺しに来ていた坂上田村麻呂に対し、賢心は「殺しはいけません!」と殺しの罪とか観音様とかについてを語られ、その話に深く感動した坂上田村麻呂は観音様の信者に。

観音様の信者となった坂上田村麻呂は、観音像を崇める為のお堂を音羽の滝付近に立て、これが清水寺建設の始まりとなります。

その後、「殺しはいけません!」と賢心の話に感銘した割には、征夷大将軍として大規模な蝦夷征討(ざっくり言うと北海道らへんの悪者や服従しないものを討つこと)を行い、無事に都へ帰還。

延歴17年(798年)に賢心(この頃には延鎮上人に改名している)と協力して、音羽の滝付近に立てたお堂を大規模に改築し、清水寺を建築。

上記の事からわかるとおり、清水寺の発端(元祖)は行叡居士、創始者(開山)は賢心、発起人(本願)は坂上田村麻呂となります。

清水寺焼失について

賢心と坂上田村麻呂の活躍によって建てられた清水寺は弘仁元年(810年)、嵯峨天皇(さがてんのう)の許しを得て、公認の寺となりました。

ちなみに、この当時の清水寺は「北観音寺(きたかんのんじ)」と呼ばれており、その後、音羽の滝の清らかさにちなんで「清水寺」と名称を改められました。

話を戻しますがが、平安時代末期から大規模な寺や神社は武装した僧侶「僧兵」を集団として抱えており、現在では考えられないが、当時のお寺や神社は武装し戦っていた。

こうなってしまった理由を具体的に話すと長くなるので、ざっくり簡単に話すと、お寺や神社が土地や税金をめぐる争いに対して自らを守る為…要するに「自衛」です。

かの有名な武蔵坊弁慶、略称「弁慶」も僧兵です。

そんな戦うお寺&神社の中でも、強大な勢力を持っていたのが南都(現在の奈良)に位置する「興福寺」と比叡山(ひえいざん)の「延暦寺」であり、この二つは「南都北嶺(なんとほくれい)」と呼ばれていました。

清水寺は、平安時代以来長らく強大勢力を誇る興福寺の支配下にあった為、南都北嶺の争いに巻き込まれる事がほとんどで、幾度となく焼失している事が記録されています。

何度も焼失しているのにも関わらず、現在も立派に京都で清水寺が建っているのは、江戸幕府の第3代将軍「徳川家光」の寄付によって再建されたものです。

なお、焼失再建を繰り返しているのは清水寺に限らず、上記にもでてきた興福寺や延暦寺、更にいえば東大寺、厳島神社といった有名な神寺も再建によって現存する事ができています。

まとめ

清水寺の建て、お寺と公認させたのは坂上田村麻呂であり、その創立者は賢心(延鎮上人)となります。

ただし、清水寺は幾度も焼失・再建を繰り返している為、現存している清水寺のほとんどは坂上田村麻呂の建設したものではなく、徳川家光の寄付によって再建されたものになります。

また、冒頭にでてきた「音羽の滝」も現存していますので、清水寺へ観光の際は立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

ちなみに、思い切って大きな決断する際に「清水の舞台から飛び降りるつもりで」なんて言われているが、実は元禄7年(1694年)から元治元年(1864年)の間、記録にあるだけで235件も発生しているようで……

これは清水の舞台の崖から飛び降りれば死んで成仏できる、または生きていれば願いが叶うなんて伝えられた為であり、それを信じて飛び降りるものが絶えなかったそうです。

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